脂肪吸引体験談[4]
2008年2月5日 美容・ダイエット・薬■麻酔
黄色い(と感じただけで実際は見ていないし無色であると思うが)ガスがマスクから入ってきた。
思わず息を止める。
「今ガス流してますからね。ゆっくり鼻から吸ってください」
ナースのその声が無かったら私は息を止めたままだっただろう。
私はゆっくり鼻からそのガスを吸った。
痛い。
痺れるような感覚が全身を駆け抜けた。
それをさとられたかのように、ナースの声がした。
「痺れる感じがするかも知れないけれど大丈夫ですよ。麻酔の痛みをやわらげるためですからね」
わかってる。
麻酔は痛い。
それは、歯の治療のときに何度か体験した痛みだ。
口より広範囲の麻酔。
その広さの分だけ痛いだろうという予測はしていたので、私はもう一度ゆっくり、そしておおきく息を吸った。
うつ伏せになり、両手を広げ、右頬を枕につけて寝ている状態のはずだった。
しかし一瞬、おおきく羽を広げて飛ぶ鳥になった気がした。
あ、気持ちいい…。
一瞬、一切の感覚が快楽へと変わった。
もっとその感覚を味わいたくなって、もう一度、深く吸い込んだ。
今の私ならなんだってできる、そんな気さえした。
四度目に吸い込んだところで、私の意識は飛んだ。
■オペ開始
左腕の鈍い痛みに、私の意識は還った。
どうやらもう始まっているらしい。
腕の外側を、肩のあたりから肘にかけてものすごい力で指圧を受けているような感覚。
それが何度も続いた。
逆(つまり肘から肩)に進む感覚は無い。
常に肩から肘、だ。
そうだ、さっきのガス。
麻酔ってあんなふうなのかも知れない。
とても気持ちが良かった。
もう一度吸えるなら吸ってみたいような、甘く、危険な衝動。
しかし、薬に依存することの怖さを知っているから、その考えを頭からほうきで掃き出そうとした。
いけない。
危険だ。
それにしても、アイマスクをしたときにずれた口もとのマスクを直してもらってよかった、と思った。
あのとき声をかけていなかったらガスをちゃんと吸えなくて痛い思いをしたかも知れない。
今だってやっと呼吸をしている状態(と感じてはいたが実際は普通に呼吸できていたと思う)、きちんと酸素を吸えなかったら…。
事故を防ぐには、すべて人任せではだめなのだ、と思った。
青信号で横断歩道を歩いているときに車が突っ込んでこない保証が無いのと一緒だ。
普段から常に何らかの思考活動をしている私の脳は、こんな状態でも活発に動いていた。
出来る限り記憶をしておこう。
そしてどこかにまとめよう。
それはきっと、いつか、何かの役に立つはずだ。
自分のため、これから脂肪吸引をしてみようと考えている人のため、あるいは(考えたくは無いが)事故が発生した場合には知り合いのライターさんにネタとして提供しよう。
だから、だから私はきちんと記憶しておかなければならない。
その間もずっと指圧(というか親指で力強くグググとなぞっているような感覚)は続いていた。
いったい私の腕は今どうなっているのだろう。
耳の感覚がほとんどない。
ドクターやナースの声も、例えば小テストをしている教室の隣の調理室で調理実習がおこなわれているんだな、という程度にしか聞こえなかった。
器具のぶつかる音といい、適度な会話といい。
かかっていたはずの静か(しかし陽気な)音楽も聞こえなかった。
バイタルチェックの「ピ、ピ、ピ…」という一定のリズムを刻む電子音だけがはっきりと聞こえた。
あの音は、きっとどんな状態でもヒトの耳によく響く周波数なのだろう、と思った。
準備をしているときに、右足の指ではかっているそれが少しとれかかってしまい「ピーーー」と鳴り響いたときには死んだかと思った。
目は閉じていたか開いていたか覚えていない。
開いてもどうせ見えないし、と、閉じていたような気がする。
あるいは、開く力が無かったか。
思考だけがいつもより活発に動いているのはきっとこのせいだろう、と思う。
耳も、目も遮断された状態。
そういえば、においの記憶も無い。
使える機能が、よけい敏感に反応していた。
左足のふくらはぎに圧力を感じた。
これは、血圧。
下半身の感覚ははっきりしていたが、残念ながら私には下半身に耳や目や鼻はついていないので、遮断された情報を確認することは出来なかった。
途中、「大丈夫ですか」と声をかけられ、私は遠くに居ることに気付いた。
はっきりしているようで、実はトリップの最中だったのだ。
意識と体が近付くと、急に痛んだ。
ピ、ピ、ピというリズムは狂っていない。
生きているのわかっているのだから寝かせておいて欲しい、と思った。
寝かせて?
私は寝ているのだろうか?
右腕に電流が走った(ような気がした)。
どうやら右腕の番らしい。
左のときよりも痛みを感じる。
麻酔が足りないのだろうか。
あるいは、記憶が戻りつつあるため?
右腕もやはり肩から肘へ向かう何かを感じた。
逆は無い。
左腕にもその感覚がまだあった。
まだ続いているのか?
それとも幻覚?
突然、親指(のような感覚)だったはずの圧力が、ナイフに変わったような痛みを感じた。
私は思わず声をあげる。
しかしそれは声にならない。
「あ…あああ……」
だらしなく開いた口から唾液が漏れた。
呼吸が速くなる。
助けて…助けて!!
しかしやはり声にならない。
「ここいちばん痛いところだからね、うん、ごめんね、ちょっと我慢して」
ドクターの声がした。
なぜわかる?
なぜいちばん痛いと断言する?
左はこんなに痛くなかったわ!!
逃げ出したかった。
しかし私の体はまるで手かせ足かせがついたように動かない。
いや、足は動くはずだ。
思い切って左膝を曲げる。
動く。
私は何度かバタバタさせてアピールした。
痛い、と。
なぜ左足にしたかというと、左足の血圧計ならマジックテープなので暴れても取れてしまうことはないだろうと思ったからだ。
右足のクリップはきっと外れやすい。
外れて中断、なんてことは避けたかった。
ドクターの邪魔をしてはいけない。
それは、歯医者で痛いときには左手を上げるという法則に似ていると思った。
ナースやドクターがなだめる声がする。
次第に聞こえる音が増えてきた。
調理実習はこの部屋で行われていたようだ。
ズズ、ズズズ…
ピチャ、ピチャ…
なにかが流れるような音がする。
もしかして、これが吸い出している音?
さっきまでは聞こえなかった音が聞こえる。
痛みも激しい。
私は限界を感じたので、ここで思考を強制的にシャットダウンすることにした。
(続)
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